2010年6月3日木曜日

裁判官の力

ひとりの人生を誤った方向へ導いてしまった自分の力のなさから、この人の半生も転落してしまったんでしょうけど、でも、一裁判官ならば、その経験を生かして冤罪のないように努力すれば良かったのにって思う。
お酒に溺れるなんて、甘えてるよ。1人ならまだしも、妻も子供もいたのにね。。。
もっと早く気づいて欲しかったっと思ったな~


◆裁く重み 人生翻弄 袴田事件裁判官・熊本さんの半生(6月2日中日新聞)
◇酒におぼれ 生活保護、自殺も
静岡市で1966年、一家4人が殺害された袴田事件で、一審の死刑判決を書いた熊本典道元裁判官(72)。2007年、「無罪の心証」を公表し関心を集めたが健康面の不調で、再審支援の表舞台から退きつつある。その半生は判決を境に暗転、人を裁く重みに翻弄(ほんろう)されたようにも見える。裁判員制度の導入から1年を機にたどった。 (中部報道部・森本智之)
 一昨年、前立腺がんと診断された。歩行は困難になり、ろれつも回りにくくなった。
 熊本さんは福岡市東区で、知人の女性(69)の支援を受けながら暮らしている。月約10万円の生活保護が収入のすべてだ。「認知症のような症状が出ることがある」というが、事件のことは裁判所の担当書記官の名前まで覚えていた。袴田巌死刑囚(74)のことを尋ねると、おえつした。
女性とは公表の約1年前に地元の朝市で知り合い、一緒に暮らすようになった。当時は「弁護士らの知人から借金して食いつないでいた。ホームレスのようなもの」という。女性からも金を借りるほど生活に困っていた。
 熊本さんは酒を飲むときまって「袴田君に申し訳ない」と泣いた。事情が分からない女性はインターネットで事件のことを知り、06年冬、支援団体に連絡。支援者の1人は「もう死んでいると思っていた。女性と出会わなければあの公表はなかった」と話す。
九州大卒業後に司法試験にトップ合格。静岡県警OBは「逮捕状や拘置請求の却下が多い人権派(の裁判官)で有名だった」。68年の袴田事件の一審判決当時は30歳。自白の信ぴょう性に疑問を抱き無罪を主張したが、裁判官3人の多数決で覆された。
 半年後、判決を悔やんで弁護士に転身した。東京の先輩の事務所で共同代表となり、妻と2人の娘にもめぐまれたが、酒の上のトラブルが絶えなかった。
 「無実の人を殺した。逮捕しろ」。夜中に警察署で大騒ぎしたこともあった。離婚届は大酒で担ぎ込まれた病院で書いたという。
 90年、司法修習同期の弁護士を頼って鹿児島県へ。関東地方に住む長女は最近、熊本さんにあてた手紙で、当時を振り返り、「『肝硬変で危ない』と言われ見舞うとやせこけてオムツを着けたお父さんがいた。それでも病室で酒を飲んでいた。(後に病死する)お母さんはこの時もう発病していたんだよ」とつづっている。
 95年に弁護士登録を抹消。九州を転々とし学生時代を過ごした福岡に行き着いた。これまでに自殺を試みたこともあったが、結局は死にきれなかったという。
「無罪の心証」の公表後、再審支援に加わろうと弁護士の再登録を申請したが、自ら取り下げた。健康面でも金銭面でも負担が大き過ぎたからだ。今は再審の行方を見守ることしかできない。
 死刑判決がその後の人生にどれだけ影響を与えたか。「酒癖が悪く、本人の人格の問題だ」と言う人もいる。ある支援者は「事件を背負い込んできた部分もあっただろう。周りに迷惑を掛けながら生きてきたようだが、こういう弱い生き方しかできなかったのではないか」と話した。